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'''石原 慎太郎''' (いしはら しんたろう、[[字体#旧字体|旧字体]]:'''石原 愼太郎'''、[[1932年]] ([[昭和]]7年) [[9月30日]] - ) は、[[日本]]の[[政治家]][[作家]][[東京都知事]] (第14・15・16・17代)
'''石原 慎太郎'''(いしはら しんたろう(旧字体で『石原愼太郎』とも表記されるが、本項ではよく知られている新字体の表記を使用する)、[[昭和]]7年([[1932年]])[[9月30日]] - )は、[[日本]]の[[極右]][[政治家]]、糞[[小説家]]にて日本国最悪最低の[[独裁者]]。通称は[[平成のヒトラー]]。
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==人物==
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[[参議院議員]] (1期) 、[[衆議院議員]] (8期) 、[[環境大臣|環境庁長官]] ([[福田赳夫内閣|第8代]]) 、[[運輸大臣]] ([[竹下内閣|第59代]]) を歴任した。
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レイプや殺人などの犯罪行為を推奨する蛆虫である。
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所属政党 = ([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]→) ([[無所属]]→)  (自由民主党→) 無所属
  
<span style="line-height:120%; font-family:serif; font-size:1cm">こいつの信者どもこそ[[造田博]]に襲われるべきである。</span>
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* 東京都 第14・15・16・17代[[東京都知事]] 当選回数4回
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:[[1999年]][[4月23日]]~現職
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* 第59代 [[運輸大臣]] [[竹下内閣]]時
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:[[1968年]][[7月8日]]~[[1972年]][[11月25日]][[第33回衆議院議員総選挙]]立候補により自動失職
  
==関連項目==
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== 概要 ==
*[[利用者:雪ノ城]] - 石原を崇拝する大馬鹿野郎。
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[[ファイル:Ishihara Mishima.jpg|thumbnail|240px|[[三島由紀夫]]と。奥にいるのが石原。[[1956年]][[千代田区]][[紀尾井町]]の[[文藝春秋|文春ビル]]にて]]
*[[利用者:尻馬のりバカ]] - 同上
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[[兵庫県]][[神戸市]][[須磨区]]生まれ。[[神奈川県立湘南高等学校|湘南高等学校]]、[[一橋大学]][[法学部]]卒業。
*[[滝川高校いじめ自殺事件]] - 石原が加害者を付け上がらせ、被害者の死亡を誘発させた事件
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*[[函館高校生集団暴行死事件]] - 同上
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一橋大学では社会心理学の[[南博]]ゼミに所属。大学在学中の[[1956年]] ([[昭和]]31年) に文壇デビュー作である『[[太陽の季節]]』が第34回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を受賞、「[[太陽族]]」が生まれる契機となる。また、同作品の[[映画]]化では弟・[[石原裕次郎|裕次郎]]をデビューさせた。作家としては他に[[芸術選奨|芸術選奨文部大臣賞]]、[[平林たい子文学賞]]などを受賞。『[[「NO」と言える日本|「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-]]』 ([[盛田昭夫]]との共著) 、弟・裕次郎を題材にした『弟』は[[ミリオンセラー]]となった。現在、芥川賞選考委員。
[[Category:犯罪予備軍]]
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[[Category:長谷川穂積に一遍どつき回された方がいい人物]]
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[[ベトナム戦争]]を取材した経験から政治家を志し、[[1968年]] (昭和43年) に[[参議院議員選挙]]に[[全国区]]から出馬し初当選。[[1972年]] (昭和47年) には衆議院に鞍替え出馬し当選、以後当選8回。[[1975年]] (昭和50年) 、現職の[[美濃部亮吉]]に挑戦する形で[[1975年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]に自民党推薦で出馬するも落選。その後衆議院議員に復帰し、[[1976年]] (昭和51年) に[[福田赳夫内閣]]で[[環境大臣|環境庁長官]]を、[[1987年]] (昭和62年) に[[竹下内閣]]で[[運輸大臣]]を歴任、[[1989年]] ([[平成]]元年) には[[自民党総裁選]]に立候補し、[[海部俊樹]]に敗れる。[[1995年]] (平成7年) 、議員勤続25年を祝う永年勤続表彰の場で、突如議員辞職を表明した。
[[Category:シロアリ]]
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[[Category:小泉毅の爪の垢を飲ませたい人物]]
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[[1999年東京都知事選挙]]に出馬。立候補の表明は有力候補中最も遅かったが、[[舛添要一]]・[[鳩山邦夫]]・[[明石康]]・[[柿澤弘治]]といった有力候補を抑え初当選する。[[2003年東京都知事選挙]]では史上最高の得票率で再選、[[2007年東京都知事選挙]]では[[浅野史郎]]らを破り3選を果たす。[[2011年東京都知事選挙]]では当初不出馬が取り沙汰されたものの、[[東国原英夫]]らを破り4選。
[[Category:悪魔]]
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[[Category:日本の政治家|]]
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都知事就任以降、毎年[[8月15日]]に[[靖国参拝]]する。[[新しい歴史教科書をつくる会]]に賛同している。[[日本会議]]代表委員、[[戸塚ヨットスクール]]を支援する会会長を務める。[[江藤淳]]の後を引き継ぎ、[[産経新聞]]に[[エッセイ]]『日本よ』を連載している。
[[Category:蛆虫]]
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[[Category:チンカス]]
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[[趣味]]は[[ヨット]]、[[テニス]]、[[スキューバダイビング]]、[[射撃]]。身長181cm、体重77kg、[[天秤座]]。[[俳優]]の[[石原裕次郎]]は弟。家族は妻 ([[石原典子]]) と4男 ([[自由民主党幹事長]]の[[石原伸晃]]は長男、俳優・[[タレント]]の[[石原良純]]は次男、前[[衆議院議員]]の[[石原宏高]]は三男、[[画家]]の[[石原延啓]]は四男) 。
[[Category:低能]]
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[[Category:鬼畜]]
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石原は様々な差別的思想の考えを持っており、それに関しての部分が批判されることもあるが、逆に作家としての能力は高く評価されている。
[[Category:独裁者]]
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[[Category:大藪順子と接する資格の無い人物]]
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== 略年譜 ==
[[Category:小林美佳と接する資格の無い人物]]
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* [[1932年]] (昭和7年)
[[Category:身の程知らず]]
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: [[9月30日]] - [[兵庫県]][[神戸市]][[須磨区]]にて海運会社[[商船三井|山下汽船]]に勤める石原潔・光子の長男として生まれる。父・潔は[[愛媛県]]の[[長浜町]]に生まれ、旧制宇和島中学 (現在の[[愛媛県立宇和島東高等学校|宇和島東高校]]) を[[中退]]し山下汽船に入社した。店童 (てんどう) あがりだったにもかかわらず、最後は[[関連会社]]の[[重役]]にまで出世した。母・光子は[[広島県]][[厳島]]の出身。なお石原自身は[[神奈川県]]を出身地としている。
[[Category:死ね]]
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* [[1934年]] (昭和9年)
[[Category:野田憲太郎にレイプされるべき人物]]
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: 12月28日 - 弟の[[石原裕次郎|裕次郎]]が生まれる。
[[Category:物知らず]]
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* [[1936年]] (昭和11年)
[[Category:石頭]]
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: 6月 - 父が小樽出張所主任となり[[北海道]][[小樽市]]に転居。[[学校法人藤学園|小樽藤幼稚園]]卒園し[[小樽市立稲穂小学校|稲穂国民学校]]に進学
[[Category:神戸市出身の人物|]]
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* [[1943年]] (昭和18年)
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: 2月 - 父が東京支店副長の辞令を受け神奈川県[[逗子市]]に転居。石原一家が逗子で最初に住んだ桜山の家は山下汽船創業者[[山下亀三郎]]の別邸。
[[Category:三崎和雄に半殺しにされるべき人物]]
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* [[1945年]] (昭和20年)
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: 4月 - 神奈川県立湘南中学(後の[[神奈川県立湘南高等学校]])へ進学。
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* [[1949年]] (昭和24年)
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: 立身出世主義的な校風に反撥し、胃腸の病を口実に1年間[[休学]。休学中は[[文学]]・[[美術]]・[[演劇]]・[[音楽]]・[[映画]]に耽溺し、[[フランス語]]を学習。
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* [[1951年]] (昭和26年)
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* [[1952年]] (昭和27年)
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: 4月 - [[一橋大学]]法学部に入学。柔道部、サッカー部に入部する。[[簿記]]や[[会計学]]などの勉強に励んだが半年間やってみて向いていないと悟り公認会計士になることを断念する。
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* [[1955年]] (昭和30年)
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: 12月 - 当時18歳だった石田由美子 (後に典子と改名) と[[結婚]]。
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* [[1956年]] (昭和31年)
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: 1月 - 『[[太陽の季節]]』により第34回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を当時史上最年少で受賞、[[ベストセラー]]となる。一橋大学[[法学部]]を[[卒業]]。『太陽の季節』が日活で映画化され、弟・裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たし、「[[太陽族]]」、「[[スポーツ刈り#慎太郎刈り|慎太郎刈り]]」が流行する。
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:映画『太陽の季節』が公開された際、登場人物が強姦・不純異性交遊等を行う反社会的内容から映画を見た青少年への影響が取りざたされ、[[映画倫理委員会]] (通称、映倫) が作られる契機となった。
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* [[1957年]] (昭和32年)
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: 4月19日 - 長男・[[石原伸晃|伸晃]]が誕生。
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* [[1958年]] (昭和33年)
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: - [[東宝]]で映画「若い獣」の[[監督]]を務める。また、[[大江健三郎]]、[[江藤淳]]、[[谷川俊太郎]]、[[寺山修司]]、[[浅利慶太]]、[[永六輔]]、[[黛敏郎]]、[[福田善之]]ら若手文化人らと「[[若い日本の会]]」を結成し、[[安保闘争|60年安保]]に反対。
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* [[1960年]] (昭和35年)
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: - 隊長として、南米横断1万キロ・[[ラリー]]に[[ラビットスクーター]]で参加。
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* [[1962年]] (昭和37年)
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: 1月15日 - 二男・[[石原良純|良純]]が誕生。
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* [[1963年]] (昭和38年)
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: 3月 - 『[[狼生きろ豚は死ね・幻影の城]]』を新潮社より出版。
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* [[1964年]] (昭和39年)
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: 6月19日 - 三男・[[石原宏高|宏高]]が誕生。
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* [[1966年]] (昭和41年)
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: - 四男・[[石原延啓|延啓]]が誕生。
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* [[1967年]] (昭和42年)
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* [[1968年]] (昭和43年)
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: 7月 - [[第8回参議院議員通常選挙]]に[[自由民主党 (日本)|自民党]]から[[全国区]]に出馬し、史上初の300万票得票でトップ当選。2位[[青島幸男]]・3位[[上田哲]]であり、ライバル関係になっていた。
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* [[1969年]] (昭和44年)
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: 11月 - 『スパルタ教育』を光文社より出版。
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* [[1972年]] (昭和47年)
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: 11月25日 - 参議院議員を辞職。
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: 12月10日 - [[第33回衆議院議員総選挙|衆議院選挙]]に[[東京都第2区 (中選挙区)|旧東京2区]]から無所属で出馬して当選。後に自民党に復党。
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* [[1973年]] (昭和48年)
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: 7月 - [[渡辺美智雄]]、[[中川一郎]]、[[浜田幸一]]らと憲法改正や金権政治の打破を謳った[[タカ派]]集団「[[青嵐会]]」を結成。
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* [[1975年]] (昭和50年)
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: 3月18日 - 衆議院議員を辞職。
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: 4月13日 - 現職の[[美濃部亮吉]]に挑戦する形で[[1975年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]に自民党推薦で出馬。233万票を得票するも落選。
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* [[1976年]] (昭和51年)
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: 12月5日- 衆院選で国政に復帰(同区で[[民社党]]新人[[大内啓伍]]も当選)。同月24日発足の[[福田赳夫内閣_(改造)]]で[[環境大臣|環境庁長官]]に就任。
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* [[1981年]] (昭和56年)
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: - 弟の裕次郎が倒れた際に小笠原諸島から海上自衛隊飛行艇を呼び寄せて帰京し、公私混同として問題になる。燃料代は160万円かかっていた。
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* [[1983年]] (昭和58年)
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: - [[自由民主党の派閥]]、[[自由革新同友会]]を継いで代表就任、後に[[清和会]]へ合流。[[黒シール事件]]によって[[野村秋介]]より抗議を受ける。
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* [[1987年]] (昭和62年)
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: 7月17日 - 弟・裕次郎が[[肝細胞癌]]で逝去 (52歳) 。
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: 11月6日 - [[竹下内閣]]で[[運輸大臣]]に就任。
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* [[1988年]] (昭和63年)
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: 4月8日 - 『漁業施設がヨットに危険』と発言し、[[海上保安庁]]に漁業施設を総点検させることになる。
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* [[1989年]] (平成元年)
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: 8月8日 - [[亀井静香]]・[[平沼赳夫]]・[[園田博之]]らに推される形で[[自民党総裁選]]に出馬するも[[竹下派]]が推す[[番町政策研究所|河本派]]の[[海部俊樹]]に敗れる。 『[[「NO」と言える日本]]』を[[盛田昭夫]]と共著で出版。
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* [[1990年]] (平成2年)
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: 2月18日 - [[第39回衆議院議員総選挙]]が[[東京都第4区 (中選挙区)|旧東京4区]]で長男の[[石原伸晃|伸晃]]が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。
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* [[1995年]] (平成7年)
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: 4月14日 - [[国会議員]]在職25年表彰の国会演説で突然の議員辞職を表明(最初の地盤継承者は[[栗本慎一郎]])。
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* [[1996年]] (平成8年)
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: - 弟の石原裕次郎をテーマに『弟』を発表。
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* [[1999年]] (平成11年)
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: 4月11日 - [[1999年東京都知事選挙]]に出馬。立候補表明の記者会見での第一声の、「石原裕次郎の兄でございます」と言う挨拶ギャグが話題を呼ぶ。[[鳩山邦夫]]、[[舛添要一]]、[[明石康]]、[[柿澤弘治]]ら有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選 (舛添と喧嘩別れした栗本や、栗本が同年末に復党する[[政党自由連合]]代表[[徳田虎雄]]の支援受けた)
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* [[2003年]] (平成15年)
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: 4月13日 - [[2003年東京都知事選挙]]に出馬。308万票(得票率史上最高)を獲得し、[[樋口恵子]]、[[若林義春]]らを破り再選。石原の圧勝が事前に予想されていたためか、珍しく候補者の少ない都知事選であった。
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* [[2004年]] (平成16年)
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: 11月17 - 21日 - 「弟」テレビドラマ化。
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* [[2007年]] (平成19年)
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: 4月8日 - [[2007年東京都知事選挙]]に出馬。投票の過半数にあたる281万票を獲得し、[[浅野史郎]]、[[吉田万三]]、[[黒川紀章]]らを破り3選。
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* [[2010年]] (平成20年)
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: 4月10日 [[たちあがれ日本]]・応援団長就任
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* [[2011年]] (平成23年)
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: 4月10日 - 一時は3期目での退任を考慮した中で、[[2011年東京都知事選挙]]に出馬を決断し、立候補。[[東国原英夫]]、[[小池晃]]らを破り、2,615,120票を獲得して四選を果たした (得票率は43.4%) 。
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== 学生時代 ==

2012年5月2日 (水) 15:11時点における版

石原 慎太郎

石原 慎太郎 (いしはら しんたろう、旧字体:石原 愼太郎1932年 (昭和7年) 9月30日 - ) は、日本政治家作家東京都知事 (第14・15・16・17代) 。

参議院議員 (1期) 、衆議院議員 (8期) 、環境庁長官 (第8代) 、運輸大臣 (第59代) を歴任した。

所属政党 = (自由民主党→) (無所属→) (自由民主党→) 無所属

1999年4月23日~現職

1987年11月6日1988年12月27日

1976年12月24日1977年11月28日
1972年12月~1995年4月
1968年7月8日1972年11月25日第33回衆議院議員総選挙立候補により自動失職

概要

兵庫県神戸市須磨区生まれ。湘南高等学校一橋大学法学部卒業。

一橋大学では社会心理学の南博ゼミに所属。大学在学中の1956年 (昭和31年) に文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞、「太陽族」が生まれる契機となる。また、同作品の映画化では弟・裕次郎をデビューさせた。作家としては他に芸術選奨文部大臣賞平林たい子文学賞などを受賞。『「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-』 (盛田昭夫との共著) 、弟・裕次郎を題材にした『弟』はミリオンセラーとなった。現在、芥川賞選考委員。

ベトナム戦争を取材した経験から政治家を志し、1968年 (昭和43年) に参議院議員選挙全国区から出馬し初当選。1972年 (昭和47年) には衆議院に鞍替え出馬し当選、以後当選8回。1975年 (昭和50年) 、現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選挙に自民党推薦で出馬するも落選。その後衆議院議員に復帰し、1976年 (昭和51年) に福田赳夫内閣環境庁長官を、1987年 (昭和62年) に竹下内閣運輸大臣を歴任、1989年 (平成元年) には自民党総裁選に立候補し、海部俊樹に敗れる。1995年 (平成7年) 、議員勤続25年を祝う永年勤続表彰の場で、突如議員辞職を表明した。

1999年東京都知事選挙に出馬。立候補の表明は有力候補中最も遅かったが、舛添要一鳩山邦夫明石康柿澤弘治といった有力候補を抑え初当選する。2003年東京都知事選挙では史上最高の得票率で再選、2007年東京都知事選挙では浅野史郎らを破り3選を果たす。2011年東京都知事選挙では当初不出馬が取り沙汰されたものの、東国原英夫らを破り4選。

都知事就任以降、毎年8月15日靖国参拝する。新しい歴史教科書をつくる会に賛同している。日本会議代表委員、戸塚ヨットスクールを支援する会会長を務める。江藤淳の後を引き継ぎ、産経新聞エッセイ『日本よ』を連載している。

趣味ヨットテニススキューバダイビング射撃。身長181cm、体重77kg、天秤座俳優石原裕次郎は弟。家族は妻 (石原典子) と4男 (自由民主党幹事長石原伸晃は長男、俳優・タレント石原良純は次男、前衆議院議員石原宏高は三男、画家石原延啓は四男) 。

石原は様々な差別的思想の考えを持っており、それに関しての部分が批判されることもあるが、逆に作家としての能力は高く評価されている。

略年譜

9月30日 - 兵庫県神戸市須磨区にて海運会社山下汽船に勤める石原潔・光子の長男として生まれる。父・潔は愛媛県長浜町に生まれ、旧制宇和島中学 (現在の宇和島東高校) を中退し山下汽船に入社した。店童 (てんどう) あがりだったにもかかわらず、最後は関連会社重役にまで出世した。母・光子は広島県厳島の出身。なお石原自身は神奈川県を出身地としている。
12月28日 - 弟の裕次郎が生まれる。
6月 - 父が小樽出張所主任となり北海道小樽市に転居。小樽藤幼稚園卒園し稲穂国民学校に進学
2月 - 父が東京支店副長の辞令を受け神奈川県逗子市に転居。石原一家が逗子で最初に住んだ桜山の家は山下汽船創業者山下亀三郎の別邸。
4月 - 神奈川県立湘南中学(後の神奈川県立湘南高等学校)へ進学。
立身出世主義的な校風に反撥し、胃腸の病を口実に1年間[[休学]。休学中は文学美術演劇音楽映画に耽溺し、フランス語を学習。
10月 - 父が脳溢血で急死。山下近海汽船社長二神範蔵から一橋大への進学と、当時できたばかりの公認会計士の取得を強くすすめられる。
4月 - 一橋大学法学部に入学。柔道部、サッカー部に入部する。簿記会計学などの勉強に励んだが半年間やってみて向いていないと悟り公認会計士になることを断念する。
12月 - 当時18歳だった石田由美子 (後に典子と改名) と結婚
1月 - 『太陽の季節』により第34回芥川賞を当時史上最年少で受賞、ベストセラーとなる。一橋大学法学部卒業。『太陽の季節』が日活で映画化され、弟・裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たし、「太陽族」、「慎太郎刈り」が流行する。
映画『太陽の季節』が公開された際、登場人物が強姦・不純異性交遊等を行う反社会的内容から映画を見た青少年への影響が取りざたされ、映画倫理委員会 (通称、映倫) が作られる契機となった。
4月19日 - 長男・伸晃が誕生。
- 東宝で映画「若い獣」の監督を務める。また、大江健三郎江藤淳谷川俊太郎寺山修司浅利慶太永六輔黛敏郎福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対。
- 隊長として、南米横断1万キロ・ラリーラビットスクーターで参加。
1月15日 - 二男・良純が誕生。
3月 - 『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』を新潮社より出版。
6月19日 - 三男・宏高が誕生。
- 四男・延啓が誕生。
- 読売新聞社の依頼で、ベトナム戦争を取材。
7月 - 第8回参議院議員通常選挙自民党から全国区に出馬し、史上初の300万票得票でトップ当選。2位青島幸男・3位上田哲であり、ライバル関係になっていた。
11月 - 『スパルタ教育』を光文社より出版。
11月25日 - 参議院議員を辞職。
12月10日 - 衆議院選挙旧東京2区から無所属で出馬して当選。後に自民党に復党。
7月 - 渡辺美智雄中川一郎浜田幸一らと憲法改正や金権政治の打破を謳ったタカ派集団「青嵐会」を結成。
3月18日 - 衆議院議員を辞職。
4月13日 - 現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選挙に自民党推薦で出馬。233万票を得票するも落選。
12月5日- 衆院選で国政に復帰(同区で民社党新人大内啓伍も当選)。同月24日発足の福田赳夫内閣_(改造)環境庁長官に就任。
- 弟の裕次郎が倒れた際に小笠原諸島から海上自衛隊飛行艇を呼び寄せて帰京し、公私混同として問題になる。燃料代は160万円かかっていた。
- 自由民主党の派閥自由革新同友会を継いで代表就任、後に清和会へ合流。黒シール事件によって野村秋介より抗議を受ける。
7月17日 - 弟・裕次郎が肝細胞癌で逝去 (52歳) 。
11月6日 - 竹下内閣運輸大臣に就任。
4月8日 - 『漁業施設がヨットに危険』と発言し、海上保安庁に漁業施設を総点検させることになる。
8月8日 - 亀井静香平沼赳夫園田博之らに推される形で自民党総裁選に出馬するも竹下派が推す河本派海部俊樹に敗れる。 『「NO」と言える日本』を盛田昭夫と共著で出版。
2月18日 - 第39回衆議院議員総選挙旧東京4区で長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。
4月14日 - 国会議員在職25年表彰の国会演説で突然の議員辞職を表明(最初の地盤継承者は栗本慎一郎)。
- 弟の石原裕次郎をテーマに『弟』を発表。
4月11日 - 1999年東京都知事選挙に出馬。立候補表明の記者会見での第一声の、「石原裕次郎の兄でございます」と言う挨拶ギャグが話題を呼ぶ。鳩山邦夫舛添要一明石康柿澤弘治ら有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選 (舛添と喧嘩別れした栗本や、栗本が同年末に復党する政党自由連合代表徳田虎雄の支援受けた)
4月13日 - 2003年東京都知事選挙に出馬。308万票(得票率史上最高)を獲得し、樋口恵子若林義春らを破り再選。石原の圧勝が事前に予想されていたためか、珍しく候補者の少ない都知事選であった。
11月17 - 21日 - 「弟」テレビドラマ化。
4月8日 - 2007年東京都知事選挙に出馬。投票の過半数にあたる281万票を獲得し、浅野史郎吉田万三黒川紀章らを破り3選。
4月10日 たちあがれ日本・応援団長就任
4月10日 - 一時は3期目での退任を考慮した中で、2011年東京都知事選挙に出馬を決断し、立候補。東国原英夫小池晃らを破り、2,615,120票を獲得して四選を果たした (得票率は43.4%) 。

学生時代