釈迦

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釈迦(しゃか、釋迦、シャーキャ、zaakya(: शाक्य, 生没年は仏教研究上未決であり、一説に前463年 - 前383年前560年 - 前480年等)は、仏教の開祖。多くの異称があり、後述する。

呼称[編集]

本名(俗名)はゴータマ・シッダッタパーリ語: Gotama Siddhattha)またはガウタマ・シッダールタ(梵:शाक्यमुनि, Gautama siddhaartha)、漢訳では瞿曇 悉達多(くどん しっだった)と伝えられる。

「釈迦」は釈迦牟尼(しゃかむに)(梵: शाक्यमुनि、zaakya-muni、シャーキャ・ムニ)の略である。釈迦は彼の部族名もしくは国名で、牟尼は聖者・修行者の意味。つまり釈迦牟尼は、「釈迦族の聖者」などとなる。

称号を加え、釈迦牟尼世尊釈迦牟尼仏陀釈迦牟尼仏釈迦牟尼如来ともいう。略して釈迦尊釈尊(しゃくそん)、釈迦仏釈迦如来ともいう。ただし、これらはあくまで仏教の視点からの呼称である。

称号だけを残し、世尊仏陀ブッダ如来とも略す。ただし、仏教では仏陀世尊如来は釈迦牟尼だけではない。特に浄土真宗では単に如来というと阿弥陀如来を指すことも少なくない。

巷間では、お釈迦様仏様(ほとけさま)と呼ばれることが多い。ただし、仏様は死者の意味に使われることも多い。

仏典ではこの他にも多くの異名を持つ。うち代表的な10個(どの10個かは一定しない)を総称して「十号」と呼ぶ。

呼称表
  • 釈迦牟尼世尊
    • 釈迦尊
    • 釈尊(しゃくそん)
  • 釈迦牟尼仏陀
    • 釈迦牟尼仏
    • 釈迦仏
  • 釈迦牟尼如来
    • 釈迦如来

生涯[編集]

釈迦は紀元前5世紀頃、現在のネパールにいた釈迦族に生まれ、王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家した。35歳で正覚(覚り)を開き、仏陀(覚者)となった。これを成道という。仏陀は自らの覚りを人々に説いて廻り、一説において2月15日安祥として80歳で入滅(死去)した。

誕生[編集]

釈迦は現在のネパールのカピラヴァストゥ(kapila-vastu)で釈迦族の中心地、迦毘羅衛国を形成していた釈迦族の出身である。釈迦の故郷であるこのカピラヴァスツは今のネパールのタライ地方 (tarai) のティロリコート (tilori-kot) 付近を中心とする小さな共和制の国で、当時の二大強国マガタとコーサラの間にはさまれた国であった。家柄は王 (raaja) とよばれる名門であった。このカピラヴァスツ・迦毘羅衛国の城主、浄飯王(じょうぼんのう、シュッドーダナ Zddhodana)を父とし、隣国の同じ釈迦族のコーリヤの執政アヌシャーキャの娘摩耶夫人(まやぶにん、マーヤー maayaa)を母として生まれ、ゴータマ・シッダッタ(瞿曇・悉達多)((梵)Gautama siddhaartha、()Gotama Siddhattha)と名づけられた。

ゴータマは「最上の牛」を意味する言葉で、シッダッタ(シッダールタ)は目的を達したものという意味である。ゴータマは母親がお産のために実家へ里帰りする途中、藍毘尼(ルンビニ lumbini) の花園で休んだ時に誕生した。生後一週間で母の摩耶は亡くなり、その後は母の妹、摩訶波闍波提(まかはじゃはだい、マハープラジャパティー mahaaprajapatii)によって育てられた。当時は姉妹婚の風習があったから、摩耶も摩訶波闍波提も浄飯王の妃だった可能性がある。

釈迦の生まれた年代に最新の研究をもってしても100年もの誤差が生じるのは輪廻転生の考えから時間というものがさほど必要なものではないと考えられていたため、文献に表示されていないことによる。インドなどの詳細は中国の文献によって知ることができる。

釈迦は、産まれた途端、七歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と話したと伝えられている。釈迦は浄飯王らの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、クシャトリヤの教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った。16歳で母方の従妹の耶輸陀羅(やしゅだら、ヤショーダラー yazodharaa)と結婚し、一子、羅睺羅(らごら、ラーフラ raahula意味は日食月食などを起こす魔神ラーフ転じて障害をなすもの)をもうけた。

出家[編集]

当時のインドでは、ウパニシャッド哲学を基盤としながら、ヴェーダ経典の権威を認めない六師外道と称される六人の思想家達、ジャイナ教の始祖となったニガンダ等が既成のバラモンを否定し、自由な思想を展開していた。また社会的にも16の大国、多くの小国が争いを繰り広げ、混乱の度を増すさなかにあった。

釈迦出家の動機の一つとして四門出遊の故事が挙げられる。ある時、釈迦が迦毘羅衛城の東門から出る時老人に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時死者に会い、生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と無常を感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。

私生活において、一子羅睺羅をもうけたことにより、跡継ぎの問題が解決すると、かねてよりの念願の出家の志を29歳、12月8日夜半、王宮を抜け出て果たした。出家して6年(一説には7年)の修行の間、苦行を積んだ。減食、絶食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。

成道[編集]

そこで釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。共に苦行を行っていた5人の沙門と別れ、尼連禅河(にれんぜんが、ネーランジャナー nairaJjanaa)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) 樹(後に菩提樹と言われる)の下で、49日間の観想に入った。そして、ついに12月8日の未明に大悟する。これを「成道」といい、古来この日に「成道会(じょうどうえ)」を勤修した。ガヤー村は、仏陀の悟った場所という意味の、ブッダガヤ(仏陀伽耶)と呼ばれるようになった。

釈迦は、この悟りを得た喜びの中で、このまま浸っていようと考えた。一部の経典には「このまま無余涅槃に至ろうと考えた」との記述があることから、3カ月間禅定にあるまま死を迎えようとされたと思われた。ところが梵天によって衆生に説くよう勧められた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むバーラーナシー (baaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。

釈迦は、初めて5人の仲間にその方法論四諦八正道を実践的に説いた。これを初転法輪(しょてんぽうりん)と呼ぶ。そのうちコーンダンニャが悟りを得、釈迦は喜んだ。この時初めて、釈迦は如来(タターガタ tathaagata)という語を使った。すなわち「ありのままに来る者」「真理のままに歩む者」という意味である。それは、現実のありのままの姿 実相 を観じていく事を意味している。

初転法輪を終わって「世に六阿羅漢((漢)応供、(梵)arhan)あり。その一人は自分である」と言い、ともに同じ悟りを得た者と言った。次いでバーラーナシーの長者、耶舎 (yazas) に対して正しい因果の法を次第説法し、彼の家族や友人を教化した。古い戒律に「世に六十一阿羅漢あり、その一人は自分だと宣言された」と伝えられている。

教団[編集]

その後、当時有名だった事火外道(じかげどう)の3迦葉、ウルヴェーラ・カッサパ (uruvela kassapa)、ナディ・カッサパ (nadi kassapa)、ガヤー・カッサパ (gayaa kassapa) を教化して、千人以上の構成員を持つようになった。

ついで王舎城(ラージャグリハ raajagRha)に向かって進み、ガヤ山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と言い、煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えた。

王舎城に入って、頻婆娑羅(びんばしゃら、ビンビサーラ bimbisaara)王との約束を果たし教化する。王はこれを喜び竹林精舎 (veNuuvana-vihaara) を寄進する。ほどなく釈迦のもとに二人のすぐれた弟子が現れる。その一人は舎利弗(シャーリプトラ zaariputra)であり、もう一人は目連(マウドゥガリヤーヤナ maudgalyaayana)であった。この二人は後に釈尊の高弟とし、前者は知恵第一、後者は神通第一といわれたが、この二人は釈尊の弟子アッサジ (assaji) 比丘によって釈迦の偉大さを知り、弟子250人とともに帰依した。その後、舎利弗は叔父の長爪婆羅門を教化した。この頃に摩訶迦葉(マハーカッサパ mahaakassapa)が釈迦の弟子になった。

以上がおおよそ釈迦成道後の2年ないし4年間の状態であったと思われる。この間は大体、王舎城を中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわち、マガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者とだんだんと帰依し、後に持律第一とよばれた優波離(ウパーリ upaali)も、このころに釈迦に帰依したと思われる。このようにして、教団の構成員はだんだんと増加し、ここに教団の秩序を保つために、いろいろの戒律が設けられるようになった。

伝道の範囲[編集]

これより後、最後の一年間まで釈尊がどのように伝道生活を送られたかはじゅうぶんには明らかではない。経典をたどると、故国カピラヴァスツの訪問によって、釈迦族の子弟たち、羅睺羅、阿難(アーナンダ aananda)、阿那律(アニルッダ aniruddha)、提婆達多(デーヴァダッタ devadatta)などが弟子となった。またコーサラ国を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえはクル国 (kuru) のカンマーサダンマ (kammaasadamma) や、ヴァンサ国 (vaMsa) のコーサンビー (kosaambii) などである。成道後14年目の安居はコーサラ国の舎衛城(シュラーヴァスティー zraavastii)の祇園精舎で開かれた。

このように釈迦の教化され伝道された地域をみると、ほとんどガンジス中流地域を包んでいる。アンガ (aGga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathura)、コーサラ (kosalaa)、クル (kuru)、パンチャーラー (paJcaalaa)、ヴァンサ (vaMsa) などの諸国に及んでおり、弟子となった人々の地域もこれらの範囲であったと思われる。

入滅[編集]

釈迦の伝記の中で最も克明に今日記録として残されているのは、入滅前1年間の事歴である。漢訳の長阿含経の中の「遊行経」とそれらの異訳、またパーリ所伝の大般涅槃経 ((パ)mahaaparinibbanna-sutta) などの記録である。

涅槃の前年の雨期は舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。釈迦最後の伝道は王舎城の竹林精舎から始められたといわれているから、前年の安居を終わって釈迦はカピラヴァスツに立ち寄り、コーサラ国王波斯匿王(はしのくおう、プラセーナジット prasenajit)の訪問をうけ、最後の伝道が王舎城から開始されることになったのであろう。

このプラセーナジットの留守中、コーサラ国では王子、毘瑠璃(ヴィルーダカ viruuDhaka)が兵をあげて王位を奪った。そこでプラセーナジット王は、やむなく王女が嫁していたマガダ国の阿闍世王(アジャータシャトゥル ajaatazatru)を頼って向かったが、城門に達する直前に亡くなったといわれている。当時、釈迦と同年配であったといわれる。

ヴィルーダカは王位を奪うと、即座にカピラヴァスツの攻略にむかう。この時、釈迦はまだカピラヴァスツに残っていた。故国を急襲する軍を、道筋の樹下に座って二度阻止したが、ついにカピラヴァスツは攻略された。しかし、またこのヴィルーダカも戦勝の宴の最中に落雷によって死んだと記録されている。かくして釈迦はカピラヴァスツから南下してマガダ国の王舎城に着き、しばらく留まった。

釈迦は多くの弟子を従え、王舎城から最後の旅に出た。アンバラッティカ ((パ)ambalaTThika) へ、ナーランダ((パ)naalanda) を通ってパータリガーマ ((パ)paaTaligaama) に着いた。ここは後のマガダ国の首都となるパータリプトラ (paataliputra) であり、現在のパトナである。ここで釈迦は破戒の損失と持戒の利益とを説いた。

釈迦はこのパータリプトラを後にして、増水していたガンジス河を無事渡りヴァッジ国のコーリー城に着いた。ここで亡くなった人々の運命について、阿難の質問に答えながら、最後に人々が運命を知る標準となるものとして法鏡の説法をする。釈迦はこの法鏡を説いてから、四諦を説いて「苦悩と苦悩の起源と、苦悩の絶滅と苦悩の絶滅への道との尊い真理を洞察し悟った。そして生存への渇望を根絶し、生存への誘惑をうちほろぼしたから、もはや生存に戻ることはない」と説法した。

次に釈迦は、このコーリー城を出発しナディカガーマ (nadikagaama) を経てヴァイシャーリー (vaizaalii) に着いた。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバパーリ (ambapaalii) という遊女のマンゴー林に滞在し、戒律や生天の教え、四諦を説いた。やがてここを去ってヴェールバ (veluva) 村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。すなわち釈迦はここで阿難などとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。

この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、阿難は釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかにもつことができました」と言った。これについて、釈迦は「比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。……自分はすでに八十歳の高齢となり、自分の肉体は、あたかも古い車がガタガタとなってあちこちを草紐で縛り、やっと保たれているようなものである。だから、阿難よ、汝らは、ただみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなくして、修行せんとするものこそ、わが比丘たちの中において最高処にあるものである」と説法した。これが自帰依自灯明、法帰依法灯明の教えである。

やがて雨期もおわって、釈迦は、ベーシャリーへ托鉢に出かけ、永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サーランダダ廟、サワラ廟などを訪れられ、托鉢から戻って、アーナンダを促してチャパラの霊場に行った。ここで聖者の教えと神通力について説いた。

托鉢をおわって釈迦は、これが「如来のベーシャリーの見おさめである」といわれ、バァンダガーマ (bhandagaama) に移り四諦を説き、さらにハッティ (hatthi)、アンバガーマ (ambagaam)、ジャンブガーマ (jaambugaama)、ボーガガーマ (bhogagaama)を経てパーヴァー (paavaa) に着く。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。

釈迦は、ここで鍛冶屋の純陀のために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになる。カクッター河で沐浴して、最後の歩みをクシナーラー (kusinaara) にむけ、その近くのヒランニャバッティ河のほとりにいき、マルラ (malla) 族のサーラの林に横たわり、そこで入滅した。時に紀元前386年2月15日のことであった。これを仏滅(ぶつめつ)という。釈迦の入滅年時については、古来いろいろの説がある。一般には紀元前486年(衆聖点記説)を用い、宇井伯寿の前386年説も学界に用いられている。腹痛の原因は毒キノコであったという説もあるが定かではない。

さて、仏陀入滅の後、その遺骸はマルラ族の手によって火葬された。当時、釈迦に帰依していた8大国の王たちは、仏陀の舎利を得ようとマルラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否した。そのため、遺骨の分配について争いが起こるが、香姓(ドーナ dona)婆羅門の調停を得て舎利は八分され、おくれてきたマウリヤ族の代表は灰をえて灰塔を建てた。ちなみに、その八大国とは、

  1. クシナーラーのマルラ族
  2. マガダ国のアジャタシャトゥル王
  3. ベーシャーリーのリッチャビ族
  4. カビラヴァストフのシャーキャ族
  5. アッラカッパのプリ族
  6. ラーマガーマのコーリャ族
  7. ヴェータデーバのバラモン
  8. バーヴァーのマルラ族

である。

入減後、弟子たちは亡き釈迦を慕い、残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、説かれたとを結集(けつじゅう)した。これらが幾多の変遷を経て、今日の経典や律典として維持されてきたのである。

入滅後の釈迦の評価[編集]

釈迦の入滅後、インドに於いて、仏教勢力は拡大するかに見えた。が、待ち受けていたのは、ヒンドゥー教からの攻撃と弾圧であった。ヒンドゥー教勢力からの反撃に遭った仏教は、インドでは定着する事はできなかった。さらに、ヒンドゥー教は追い討ちをかけるように、釈迦に新たな解釈を与えた。釈迦は、ヴィシュヌのアヴァターラ(化身)として地上に現れたとされたのである。偉大なるヴェーダ聖典を悪人から遠ざける為に、敢えて偽の宗教である仏教を広め、人々を混乱させるために出現したとされ、誹謗の対象にされてしまった。この結果インドでは、仏教は消滅への道をたどってしまった。インドで仏教が認められるようになったのは、インドがイギリス領になった19世紀以降である。

釈迦の聖地のある、ネパールでも釈迦は知る人ぞ知る存在であるが、崇拝の対象でもある。ネパールでは現在、ヒンドゥー教徒が86%、仏教徒が8%となっている。ネパールでも仏教は少数派でしかないが、ネパールの仏教徒は聖地ルンビニへの巡礼は絶やさず行っている。尚、ルンビニは1997年ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。

仏教はその後、上座部仏教などの部派仏教大乗仏教とに分かれる。そして、部派仏教と大乗仏教とでは、釈迦に対する評価自体も変わっていった。部派仏教では、釈迦は現世における唯一の仏とみなされている。最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢(アラカン 如来十号の一)と呼ばれ、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられた。一方、大乗仏教では、釈迦は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆(サハー、堪忍世界)の仏である、とした。また、三身説では仏が現世の人々の前に現れた姿であるとされている。

釈迦の生涯を伝える文献[編集]

  1. 修行本起経〔大正・3・461〕
  2. 瑞応本起経〔大正・3・472〕これらは錠光仏の物語から三迦葉が釈尊に帰依するところまでの伝記を記している。
  3. 過去現在因果経〔大正・3・620〕普光如来の物語をはじめとして舎利弗、目連の帰仏までの伝記。
  4. 中本起経〔大正・4・147〕成道から晩年までの後半生について説く。
  5. 仏説衆許摩房帝経〔大正・3・932〕
  6. 仏本行集経〔大正・3・655〕これらは仏弟子の因縁などを述べ、仏伝としては成道後の母国の教化まで。
  7. 十二遊経〔大正・4・146〕成道後十二年間の伝記。
  8. 普曜経。
  9. 方広大荘厳経-これらは大乗の仏伝としての特徴をもっている。
  10. 仏所行讃〔大正・4・1〕((梵)Buddha-carita) 馬鳴著 注: 〔大正〕とは、大正新脩大蔵経のこと。
  11. Lalita vistara
  12. Mahavastu
  13. 遊行経 『長阿含経』中
  14. 仏般泥画経((パ)Mahaparinibbanna sutta)
  15. 大般涅槃経 法賢訳…以上3件は、釈尊入滅前後の事情を述べたもの
  16. 『自説経(ウダーナ)』:パーリ語による仏典。日本語に翻訳したものは[1]に記載されている(外部リンク)。

釈迦の生涯を描いた映画[編集]

釈迦の生涯を描いたマンガ[編集]

しゃか

釈迦の生涯を主題とした音楽[編集]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 水野弘元『釈尊の生涯』春秋社 ISBN 4-393-13701-9
  • 中村元『釈尊の生涯』平凡社 ISBN 4-582-76478-9
  • 増谷文雄『この人を見よ ブッダ・ゴータマの生涯 ブッダ・ゴータマの弟子たち』佼成出版社 ISBN 4-333-02193-6
  • 宮元啓一『ブッダが考えたこと これが最初の仏教だ』春秋社 ISBN 4-393-13520-2 
  • 並川孝儀『ゴータマ・ブッダ考』大蔵出版 ISBN 4-8043-0563-7
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