立憲養正會

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立憲養正會(りっけんようせいかい、立憲養正会)は、日本の政党国家主義右翼団体の一つ。初代総裁田中智學2006年平成18年)現在、会長小川力機関誌養正時評を擁する。本部所在地は東京都調布市西つつじケ丘2丁目28-4。

概要[編集]

1923年大正12年)11月3日日蓮信者で国体主義を標榜する、田中智學によって創設された。在家仏教組織である国柱会や明治会の姉妹団体である。田中は明治36年(1903年)、日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味の「八紘一宇」を『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇」から造語し、「国立戒壇」の建立を訴えた。

1929年昭和4年)、智學の次男、田中澤二が総裁となると、政治団体色を強め、各種選挙に候補を擁立(田中は前年の第16回衆議院議員総選挙に東京1区から無所属で出馬し、落選していた)。衆議院の多数を制し、天皇の大命を拝し、合法的に「国体主義の政治を興立」することを目標とした。最盛期の会員数は約30万人(1936年1938年には公称130万を号した)。衆議院では振るわなかったが、1937年第20回総選挙で長野4区から田中耕が党公認として初めて当選した(ただし、田中耕は1936年第19回総選挙でも選挙後繰り上げ当選している)。また、地方議会や農会には最盛期で100人を超す議員が所属した。新体制運動大政翼賛会には批判的で、1942年3月17日結社不許可処分を受け、解散に追い込まれた。日蓮主義を政治に実現しようとすることは、田中総裁を絶対視することであり、国体を無視する思想であると見なされたためである。

1942年第21回総選挙(翼賛選挙)でも、元会員37人が無所属で立候補したが、全員落選した。

第二次世界大戦敗北後、1946年3月7日に再建。田中澤二は公職追放されたが、1947年第23回総選挙で、福島3区より齋藤晃が当選し1議席を獲得。戦前、戦後の両方で議席を獲得した経験のある唯一の党派である。

1949年第24回総選挙でも、北海道1区で浦口鉄男が当選して1議席を獲得した。浦口は、北方領土は日本固有の領土であるのに、ロシア(ソ連)によって住民が追われたのはおかしいと国会で追及(1950年3月8日外務委員会)。また、破壊活動防止法には原案は棄権、修正可決された案には反対票を投じた。立憲養正會はその後も総選挙に候補を擁立したが、既成政党の再編が進むにつれ、議席獲得はできなくなった。自民党社会党による55年体制が成立すると、次第に選挙から遠ざかっていった。国政選挙への立候補も、1983年第37回総選挙に中選挙区の東京11区より、小川力が立候補して以来途絶えている模様である。

1955年、田中澤二が死去し、1962年菊地清太郎が会長となった。その後、小川力が会長となっている。

現在は天皇への「主権奉還」に加え、教育勅語の復活・日本国憲法の廃棄なども主張している。これは、日本国憲法が国民主権を原則に定めているからである。

党勢の推移[編集]

衆議院[編集]

選挙 当選/候補者定数備考
(結党時)0/-466 
第19回総選挙0/7466 
第20回総選挙1/16466 
第22回総選挙0/?468 
第23回総選挙1/7466 
第24回総選挙1/5466 
第25回総選挙0/2?466 
第26回総選挙0/2466 
第27回総選挙0/1467 
第30回総選挙0/1467 
第32回総選挙0/25486 
第33回総選挙0/2491 
第37回総選挙0/1?511 

参議院[編集]

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選挙 当選/候補者非改選定数備考
(結党時)-/---参議院は存在せず
第1回通常選挙0/?0250第1回のみ全員選挙
第2回通常選挙0/?0250 
第13回通常選挙0/10252東京都選挙区に1名(小川力)擁立

(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店岩波新書ISBN 4-00-430904-2

  • 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。
  • 第22回総選挙の定数には、選挙を実施できなかった沖縄選挙区(定数2)含む。

参考文献[編集]

関連項目[編集]