熊本大学生誘拐殺人事件

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熊本大学生誘拐殺人事件(くまもと・だいがくせいゆうかいさつじんじけん)は、1987年田本竜也ほか3名による殺害後、身代金を要求した誘拐殺人事件。

また殺害された男性の友人女性を、共犯者3名とともに、12日間監禁・強姦していた。

戦後日本の身代金誘拐で成人男性が殺害されたのは初めて。事件解決後、主犯・田本竜也が拘置所から職員と共謀して脱獄未遂事件を起こした。

誘拐事件

1987(昭和62)年9月14日、熊本・玉名市の田本竜也(当時22歳)は小学校時代の同級生で私立大学2年生の上田創昭さん(当時21歳)が資産家の息子であることに目を付け、友人の結城(当時20歳)、坂井(当時35歳)、坂本(当時20歳)と共謀し身代金目的の誘拐を計画した。田本と結城は少年院時代の知り合いであり、結城は東京を本拠地とする暴力団にいたが、事件の直前に破門されていた。

太宰府から帰省中で熊本県玉名市をドライブ中だった上田さんが、友達の女性(当時21歳)を同乗させて玉名市内を運転する車を、4被告はレンタカーで尾行。

田本竜也は3人と共謀して、大学生(小学校時代の同級生)を同乗していた上田さんの交際女性共々言葉巧みに誘い出し、午後9時半頃、市郊外にある小岱山の公園内に止めた車の中の二人を拉致。男性を連れ出し、小岱山のゴミ捨て場でコンクリートブロック片で男性の頭などをめった打ちにし、ぐったりしたところを近くの廃材置き場の斜面から突き落とし、板くずや木の枝を上から投げて、死体に被せて逃げた。   その後4被告は女性に「上田さんと佐賀で待ち合わせる」と言って、レンタカーと上田さんの車で17日まで佐賀県内や福岡県久留米市内のモテル等に泊まりながら連れ回し、殺さずに12日間ホテルに監禁、強姦していた。

そして上田さんが生きているかのように装い、上田さんの両親に5000万円の身代金を要求。福岡県久留米市内の喫茶店を受け渡し場所に指名したが、受け取りには現れなかった。

熊本県警捜査本部は上田さんが運転していた車(父親の車を借りていた)を手配し、足取りや交友関係を捜査した結果、4被告が浮上した。4被告は女性を連れ東京まで逃走する。

9月25日午後0時半頃、横浜市内で女性を解放した。女性からの電話連絡で、捜査員と家族が午後8時頃、JR博多駅内で女性を保護した。

その結果4人の男により上田と女性が拉致された事がわかった。 捜査本部と玉名署は25日、不法監禁容疑で4被告を指名手配した。

  9月26日朝、共犯の坂井が東京都新宿区内で逮捕された。同日午後9時、結城が東京都内で逮捕された。その供述により、26日夜、八王子市内で上田さんの車が、27日夕方、大学生の遺体が発見された。

28日午後3時過ぎ、共犯の3人目、坂本が警視庁に出頭、逮捕された。

30日午前、田本は東京都渋谷区内の警察に出頭して逮捕された。

第一審の熊本地方裁判所で共犯3人は田本に命令されてやったことを主張、田本竜也は「主犯でない」「集団心理の中で犯行に及んだ」と否定した。1988年3月30日、熊本地裁は田本に殺人、身代金目的誘拐、拐取者身代金要求、監禁、強姦で死刑判決、共犯3人には、坂井に無期懲役、結城に役20年、坂本に懲役18年の判決が出る。田本竜也と無期懲役を言い渡された共犯の坂井は控訴するが、他の2人は控訴せず服役した。荒木裁判長は田本被告について「自ら計画を立案し、終始主導的役割を果たしており責任は重大」であり、被害者の心情は筆舌に尽くせず、同情の余地は全くなく、極めて悪質な犯行であるとした。田本竜也の拘置先は福岡拘置所。 1991年3月26日、福岡高裁(前田一昭裁判長)が控訴棄却、死刑判決を支持。田本竜也は上告した。弁論で弁護側は死刑違憲論を展開し、田本被告と共犯者3人との均衡が取れないことを主張した。1998年4月23日最高裁(遠藤三雄裁判長)は、死刑は違憲ではないとし、また冷酷、非情な犯行であり、金欲しさの動機、遺族の被害感情を考慮すると、反省があるとしても、死刑はやむを得ないとして田本竜也の死刑が確定した。

2002年9月18日、田本竜也の死刑執行。享年36。死刑執行時は養子縁組により苗字を田本から春田へ改姓していた。

脱獄未遂事件

上告中の1996年12月、福岡拘置所勾留中の田本竜也が夜間、窓の鉄格子を切断しているのを看守が発見。実は田本竜也が別の看守坂田誠也と共謀して脱獄を計画していたことが発覚する。田本竜也と坂田誠也は大学の名門柔道部出身で田本と同じ熊本の人間であり、年齢が近いことから友人のような間柄となり、田本竜也が冗談交じりに脱獄計画を坂田誠也に語っていた。やがて親に一目会って必ずかえってくるという田本竜也の言葉を信じ、坂田は「このままでは死刑だ。外に出てみたらどうだ」と言い出し、坂田誠也は腕時計や現金3000円、逃走経路メモ、金ノコを渡していた。

看守が囚人の脱獄を援助するという前代未聞の事件の裏には、坂田誠也が関東地方の拘置所で長年勤務して、親の病気により帰郷して福岡拘置所勤務となり、看守同士の人間関係に悩んでいたことが判明。坂田は以前から職場に不満を持っており、上司が左遷されることを願って田本の頼みに応じたともいう。坂田誠也は懲戒免職となり、逃走援助未遂で懲役2年6ヶ月(求刑懲役3年)の実刑判決を受けた。控訴せず確定した。

脱獄未遂事件により、坂田誠也を含め福岡拘置所の職員12人が減給などの処分を受けた。脱獄事件調査中の1997年2月21日午後2時前、福岡拘置所所長(当時57)が所長室で左胸をはさみで数ヶ所刺し、自殺を図った。職員が発見し、同市内の病院に運ばれ、命に別状はなかったが、入院中の午後5時前、付き添いの家族が病室を離れた隙に窓から飛び降り、自殺した。

規律違反事件

2000年6月30日、福岡県弁護士会は、福岡拘置所に在監中の田本竜也死刑囚がわずかな規律違反で過酷な懲戒処分を受けたなどとして、同拘置所の佐々木英俊所長あてに警告書及び要望書を提出。田本死刑囚が未決勾留中の1994年6月、拘置所内を通る際の廊下での待機位置をめぐって職員と口論になり、「職員に粗暴な言辞をした」として15日間の「軽塀禁」(謹慎)と読書不可などの処分を受けた。同弁護士会は軽度な違反に対して処分が重すぎると抗議した。

関連書籍

  • 別冊宝島1419『死刑囚最後の1時間』(宝島社

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