平清盛

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'''平 清盛'''(たいら の きよもり)は、[[平安時代]]末期の[[武将]]。[[公卿]]。 [[伊勢平氏]]棟梁[[平忠盛|忠盛]]の嫡子として生まれ、平氏棟梁となる。[[保元の乱]]で[[後白河天皇]]の信頼を得て、[[平治の乱]]で最終的な勝利者となり、武士では初めて[[太政大臣]]に任ぜられる。娘の[[平徳子|徳子]]を[[高倉天皇]]に入内させ「'''平氏にあらずんば人にあらず'''」(『[[平家物語]]』)と言われる時代を築いた([[平氏政権]])。平氏の権勢に反発した[[後白河天皇|後白河法皇]]と対立し、[[治承三年の政変]]で法皇を幽閉して徳子の産んだ[[安徳天皇]]を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、[[河内源氏|源氏]]による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。 == 生涯 == === 平氏の棟梁 === [[元永]]元年([[1118年]])、[[伊勢平氏]]の頭領である[[平忠盛]]の嫡子として[[伊勢国|伊勢]]産品(うぶしな、現在の[[三重県]][[津市]]産品)で生まれる。生母は不明だが[[祇園女御]]の妹という説が有力である。母の死後、祇園女御の猶子になったという。[[大治]]4年([[1129年]])正月に12歳で従五位下左兵衛佐に叙任されたことについて、[[藤原宗忠]]は「人耳目を驚かすか、言ふに足らず」と驚愕している(『[[中右記]]』)。武士の任官は三等官の尉から始まるのが通常で、二等官の佐に任じられるのは極めて異例だったためである。清盛は3月に石清水臨時祭の舞人に選ばれるが、清盛の馬の口取を祇園女御の養子とされる内大臣・[[源有仁]]の随身が勤めていることから、幼少期の清盛は祇園女御の庇護の下で成長したと思われる。 祇園女御の庇護下で育ったことから、清盛の実父は[[白河天皇]]であるとの説もある。清盛が院近臣家の出身にもかかわらず、後に皇族か摂関、清華でなければ任命されない[[太政大臣]]に任命されたことから、当時の朝廷が非公式にではあるがこの話を事実として採用していたとの主張もある([[元木泰雄]])。 若い頃は、[[鳥羽法皇]]第一の寵臣・[[藤原家成]]の邸に出入りしていたという。藤原家成は、清盛の継母・池禅尼の従兄弟だった。高階基章の女との間に[[平重盛|重盛]]・[[平基盛|基盛]]が生まれるが、死別したと推測される。[[保延]]3年([[1137年]])忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は[[肥後国|肥後]]守に任じられる。[[久安]]3年([[1147年]])[[平時子]]との間に[[平宗盛|宗盛]]が生まれる。時子の父・時信は鳥羽法皇の判官代として、[[藤原顕頼]]・高階通憲([[信西]])とともに院庁の実務を担当していた。この年6月15日、清盛は[[祇園社]]に赴くが郎等の武具を咎めた神人と小競り合いとなり、郎等の放った矢が宝殿に当たるという事件が発生した(祇園闘乱事件)。祇園社を末社とする[[延暦寺]]は忠盛・清盛の流罪を要求して[[強訴]]するが、鳥羽法皇は延暦寺の攻勢から忠盛・清盛を保護し、清盛の罪を[[贖銅]]三十斤という[[罰金刑]]にとどめた。その後、清盛に代わり異母弟の家盛が[[常陸国|常陸]]介・右馬頭に任じられ頭角を現す。しかし、久安5年(1149年)家盛は急死したため、清盛の嫡流としての地位は磐石となる。[[安芸国|安芸]]守に任じられて瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげ、父と共に西国への勢力を拡大した。またその頃より宮島の[[厳島神社]]を信仰するようになり、[[仁平]]3年(1153年)には、忠盛の死後に京都の伊勢平氏一門の頭領となる。 === 保元の乱、平治の乱 === [[保元]]元年([[1156年]])の[[保元の乱]]では池禅尼が[[崇徳天皇|崇徳上皇]]の子・[[重仁親王|重仁]]の乳母だったことから、清盛の立場は難しいものであったが一門の結束につとめ、[[後白河天皇]]側について勝利をもたらし[[播磨国|播磨]]守、[[大宰大弐]]となる。[[信西]](藤原通憲)と[[藤原信頼]]・二条親政派の対立では中立的立場をとっていたが、[[平治]]元年([[1159年]])の[[平治の乱]]で政権を握った藤原信頼・[[藤原経宗|経宗]]・[[藤原惟方|惟方]]などの反信西派を一掃することで、急速にその政治的地位を高めることになる。この過程で[[源義朝]]・[[源重成]]・[[源季実]]・[[源光保]]といった有力武士が滅亡したため、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握した。これにより、清盛は武家政権樹立の礎を築くにいたったのである。 === 全盛期 === [[画像:Sanjusangendo temple01s1408.jpg|thumb|right|250px|清盛が長寛3年(1165年)に[[法住寺 (京都市)|法住寺]]に寄進した蓮華王院([[三十三間堂]])]] 清盛は[[二条天皇]]の乳父、室の時子は乳母となり天皇の後見役をつとめて[[検非違使別当]]・[[中納言]]になる一方、後白河院庁の別当にもなり、天皇・上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。[[応保]]元年([[1161年]])9月後白河と平滋子の間に第七皇子(憲仁、後の[[高倉天皇]])が生まれると、平時忠・教盛が立太子を画策した。二条はこの動きに激怒し、時忠・教盛・藤原成親・藤原信隆を解官して後白河院政を停止した。清盛は天皇の皇居に武士を宿直させて警護することで、二条支持の姿勢を明確にした。翌年3月には平治の乱で配流されていた二条親政派の藤原経宗が帰京を許され、6月には時忠・源資賢が二条を賀茂社で呪詛した罪で配流された。清盛は二条の厚い信任を受け、親政を軌道に乗せた。さらに関白・[[藤原基実]]に娘・盛子を嫁がせて、摂関家とも緊密な関係を結んだ。院政を停止させられた後白河への配慮も怠りなく、[[長寛]]2年([[1164年]])[[蓮華王院]]を後白河のために造営している。蓮華王院には荘園・所領が寄進され、後白河の経済基盤も強化された。二条は後白河の動きに警戒心を抱き、長寛3年([[1165年]])重盛を参議に任じて平氏への依存を深めるが、7月28日死去した。 後継者の[[六条天皇]]は幼少であり基実が摂政として政治を主導して、清盛は[[大納言]]に昇進して基実を補佐した。9月時忠が帰京を許され、12月25日憲仁が親王宣旨を受けると、清盛は勅別当になった。後白河院政派は次第に勢力を盛り返していたが、清盛は後白河の行動・性格に不安を覚え、院政復活を望まなかったという。[[永万]]2年([[1166年]])7月26日摂政・氏長者の基実が急死して後白河院政が復活すると、基実の子・[[藤原基通|基通]]が幼少であることから弟・[[松殿基房|基房]]が摂政となる。基房は後白河の近臣として信頼が厚く、基実の領していた摂関家領が基房に移動すれば平氏にとって大打撃となる。清盛は[[藤原邦綱]]の助言により、[[殿下渡領]]・[[勧学院]]領・[[御堂流]]寺院領を除いた私的家領を後家の盛子に相続させることで、摂関家領の管轄に成功した。10月10日に憲仁親王が立太子すると清盛は春宮大夫となり、11月には[[内大臣]]となった。翌[[仁安 (日本)|仁安]]2年([[1167年]])2月に[[太政大臣]]になるが、太政大臣は白河天皇の治世に[[藤原師実]]と摂関を争って敗れた[[藤原信長|信長]]が就任してからは実権のない名誉職に過ぎず、わずか3ヶ月で辞任する。清盛は政界から引退し、嫡子・重盛は仁安2年5月宣旨により東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。 [[画像:Itsukushima floating shrine.jpg|thumb|right|250px|[[厳島神社]] 仁安3年(1168年)清盛の援助によって今日のような海上社殿が造られた。]] 仁安3年([[1168年]])清盛は病に倒れ、出家する。原因は「寸白(すびゃく)」(寄生虫の病)だったとされる。清盛の病状が政情不安をもたらすことを危惧した後白河は、当初の予定を早めて六条天皇から憲仁親王に譲位させることで体制の安定を図った。病から回復した清盛は[[福原京|福原]]に別荘を造営して、かねてからの念願だった厳島神社の整備・日宋貿易の拡大に没頭する。嘉応元年(1169年)後白河は出家して法皇となるが、清盛は後白河とともに東大寺で受戒して協調につとめた。これは、鳥羽法皇と[[藤原忠実]]が同日に受戒した例に倣ったものであった。この頃は、後白河が福原を訪れ宋人に面会、清盛の娘・徳子が高倉に入内、福原で後白河と清盛が千僧供養を行うなど両者の関係は友好的に推移していた。この間、平氏一門は隆盛を極め、一族で主要官位を独占し、全国に500余りの[[荘園]]を保有し、[[日宋貿易]]を推進して莫大な財貨を手にし、平時忠をして「'''平氏にあらざれば人にあらず'''」といわしめた。 === 平氏に対する不満 === ところが、この清盛の勢力の伸張に対して、後白河をはじめとする院政勢力は不快を感じるようになり、建春門院の死を契機に次第に清盛と対立を深めていく。 [[治承]]元年([[1177年]])6月には[[鹿ケ谷事件]]が起こる。これは[[多田行綱]]の密告で露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。[[藤原師光]](西光)は処刑とし、[[藤原成親]]は[[備前国|備前]]へ流罪(7月9日に食物を与えられず殺害される)[[俊寛]]らは[[鬼界ヶ島]]に流罪に処した。ただし清盛もさすがに後白河に対しては罪を問わなかった。ただし、この時実際に平氏打倒の陰謀があったかは不明であり、直前に後白河から延暦寺攻撃を命じられた清盛が、清盛自身が「仏敵」になりかねないという当時の感覚からかけ離れたこの命令の実行を回避するために行ったとする見方もある。 [[治承]]3年([[1179年]])、この年は清盛にとって不幸の連続であった。まず6月に、娘の盛子が死去する。ところが盛子が死去すると、法皇は直ちに盛子の荘園を清盛と相談もせずに没収するにいたった。さらに7月、重盛が42歳で病死してしまった。これには清盛もさすがに落胆の色を隠せなかったが、後白河は重盛の死去と同時に、またも清盛に何の相談もなく重盛の[[知行国]]であった[[越前国]]を没収してしまった。さらに、法皇は20歳の基通(室は清盛女・寛子)をさしおいて、8歳の[[松殿師家|師家]]を権中納言に任じた。この人事によって摂関家嫡流の地位を松殿家が継承することが明白となった。近衛家を支援していた清盛にとっては、見逃せることではなかった。 清盛はこの後白河の自分を無視する施策に遂に激怒し、11月14日、[[福原京|福原]](現在の[[神戸市|神戸]])から軍勢を率いて自ら上洛し、翌15日にクーデターを決行した。いわゆる[[治承三年の政変]]であるが、清盛は関白・基房、権中納言・師家を手始めに、[[藤原師長]]など反平氏的とされた39名に及ぶ公卿・院近臣(貴族8名、殿上人・受領・検非違使など31名)を全て解任とし、代わって親平氏的な公家を任官するにいたったのである。これに対して後白河は恐れを覚えて清盛に許しを請うが、清盛はこれを許さず、11月20日には鳥羽殿に幽閉するにいたった。ここに後白河院政は完全に停止された。清盛は、後の処置を宗盛に委ね福原に引き上げた。このクーデターは発端が後白河の挑発であったため、院政停止後の政権構想がしっかりと準備されていなかった。高倉天皇・近衛基通・平宗盛の三人はいずれも政治的経験が未熟であり、結局は清盛が表に出てこざるを得なかった。清盛は、解官していた[[平頼盛]]・[[花山院兼雅]]の処分を解除するなど一門の結束につとめ、基通の補佐のため藤原氏の有力者である左大臣・経宗、右大臣・[[九条兼実]]の懐柔を図った。実際の政務に関しては、平時忠・[[藤原隆季]]・[[土御門通親]]などの能吏が清盛の代弁者となった。治承4年([[1180年]])2月、高倉天皇が譲位、言仁親王が践祚した([[安徳天皇]])。安徳天皇の母は言うまでもなく清盛の娘・徳子である。名目上は高倉上皇の院政だったが、平氏の傀儡政権であることは誰の目にも明らかだった。さらに、法皇を幽閉して政治の実権を握ったことは多くの反平氏勢力を生み出すことになる。 === 反乱の狼煙 === 平氏の専横に対して反抗の第一波となったのは、後白河法皇の第2皇子[[以仁王]]の挙兵だった。以仁王は優秀であったが建春門院の圧力で親王宣下も受けられず、[[あき子内親王|八条院]]の猶子となって即位の機会を伺っていたものの、今回のクーデターでその望みは絶望的なものとなっていた。以仁王には、八条院直属の武力ともいえる[[源頼政]]・下河辺行義・[[源義清 (矢田判官代)|足利義清]]・[[源仲家]]などが付き従い、平氏に反発する[[興福寺]]・[[園城寺]](三井寺)もこの動きに同調した。しかし計画は未然に発覚、清盛の手早い対策により検非違使の藤原景高・藤原忠綱が300あまりの兵で追撃して、以仁王と源頼政らを討ち取った。しかし寺社勢力、特に園城寺と同じ[[天台宗]]で親平氏の延暦寺でも反平氏勢力の動きがあり、清盛は有力寺社に囲まれ平氏にとって地勢的に不利な京都を放棄。治承4年(1180年)6月、一門の反対を押し切り、平氏の拠点である国際貿易港の[[大輪田泊]](現在の[[兵庫県]][[神戸市]])を望む地への[[遷都]]を目指して[[福原京#福原行幸|福原行幸]]を強行する。 しかし以仁王の[[令旨]]が全国各地に飛び火して、8月には伊豆に流されていた[[源頼朝]]、それとほぼ同時期に[[甲斐源氏]]が挙兵する。9月には[[信濃国]]において[[源義仲]]らが挙兵する。これに対して清盛は頼朝らの勢力拡大を防ぐため、嫡孫の[[平維盛]]を総大将とした大軍を関東に派遣したが、[[富士川の戦い]]では交戦をせずに撤退してしまった。 この敗戦を契機として寺社勢力、特に以仁王の反乱に協力的であった園城寺・興福寺が不穏な動きを見せ始める。さらに、近江源氏が蜂起し園城寺・延暦寺の反平氏分子と提携して、物流の要所・琵琶湖を占拠し、反乱勢力は旧都を攻め落とす勢いにまで成長した。また、九州筑紫でも反乱が勃発、高倉や公家衆、さらに平氏一門や延暦寺からも遷都を望まない声が高まり、11月23日、清盛は京都に帰還するにいたった。12月になると清盛は、知盛を総大将とした軍勢を差し向けて園城寺を焼き払い、近江源氏の山本義経・柏木義兼を打ち破って、近江の平定に成功する。次に清盛が標的としたのは、畿内最大の反平氏勢力・興福寺だった。清盛は反乱鎮圧の前に背後の脅威を一掃することを決意して、重衡を総大将とした大軍を[[奈良|南都]]に派遣した。12月28日、興福寺・[[東大寺]]など南都の諸寺は炎上した。確かにこれにより都周辺の反平氏勢力の動きは鎮静化したが、[[南都焼き討ち]]は清盛が恐れていた「仏敵」の汚名を着せるにいたってしまった。 === 最期 === 治承4年末までには([[1180年]])、平氏の勢力基盤である西国においても[[伊予国|伊予]]の[[河野通清]]・[[河野通信]]父子、翌治承5年[[1181年]]には[[豊後国|豊後]]の[[緒方惟能]]・[[臼杵惟隆]]・[[佐賀惟憲]]ら豪族が挙兵し、伊勢志摩においても反乱の動きがあった。さらに東国においても平氏方であった[[佐竹氏]]などが頼朝によって討伐されるなど、反乱がいよいよ深刻化してくる。 このような中で、清盛は京都を中心に新体制を築こうと、畿内近国の惣官職を置いて宗盛を任じた。[[天平]]3年([[731年]])に京・畿内を対象に兵馬の権を与えられた新田部(にいたべ)親王の例に倣ったものであり、畿内近国に兵士役と兵糧米を課して臨戦体制を築いた。また[[丹波国|丹波]]に諸荘園総下司職を設けて、平盛俊を任じた。さらに[[越後国|越後]]の[[城資永]]、鎮守府将軍・[[藤原秀衡]]に源頼朝・源信義追討の宣旨を与えている。2月26日には重衡の鎮西下向を中止し、宗盛以下一族の武士が東国追討に向かう事が決められていたが、清盛は27日に熱病に倒れた。死期を悟った清盛は、自分の死後はすべて宗盛に任せてあるので、宗盛と協力して政務を行うよう法皇に奏上したが、返答がなかったため、恨みを残して「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残し、閏2月4日に九条河原口の[[平盛国]]の屋敷で死去した。[[享年]]64。 病状の記録から、恐らくは大陸から伝来して流行していた[[風土病]]である[[マラリア]]に罹ったものと思われる。ちなみに、当時の日本は現在よりも気候が温暖であった。清盛の死により、平氏の新体制作りは計画倒れに終わってしまうのである。なお、『[[平家物語]]』では清盛が死に臨んで「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言を残したとしている。これは平安時代末期の武士の感覚からはありえない遺言であり、後年の創作であるとも言われている{{要出典}}。『[[玉葉]]』によると、死去した年の8月1日、頼朝が密かに院に平氏との和睦を申し入れると、宗盛は清盛の遺言として「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」と述べてこれを拒否している事から、頼朝への激しい憎悪があった事は事実と思われる。 == 死後と評価 == 清盛の死後、嫡男の重盛はすでに病死し、次男の基盛も早世していたため、平氏の棟梁の座は三男の宗盛が継いだが、凡庸な宗盛は清盛のような器量もなく、全国各地で相次ぐ反乱に対処できず、後白河の奇謀に翻弄され院政勢力も勢力を盛り返すなど、平氏は次第に追いつめられていった。しかも折からの飢饉([[養和の大飢饉]])という悪条件なども重なって、[[寿永]]2年([[1183年]])、[[倶利伽羅峠の戦い]]で平氏軍が壊滅した後、[[源義仲]]の攻勢の前に成す術無く都落ちする。そして[[元暦]]2年([[1185年]])の[[壇ノ浦の戦い]]に敗れて平氏は滅亡した。 『[[平家物語]]』における悪虐、非道、非情の描写から、平清盛は古来成り上がり者の暴君、という評価が定着していたが、一方で実際の清盛の人物像は温厚で情け深いものだったともいわれている。『[[十訓抄]]』7-27には、若い頃の清盛について「人がとんでもない不都合な振る舞いをしても、冗談と思うことにした」「やったことがちっともおかしくなくても、相手への労わりとしてにこやかに笑い、とんでもない誤りをしても、役立たずと声を荒げることはない」「冬の寒い時に身辺に奉仕する幼い従者を自分の衣の裾の方に寝かせ、彼らが朝寝坊をしていたらそっと床から抜け出して存分に寝かせてやった」「最下層の召使いでも、彼の家族や知り合いの見ている前では一人前の人物として扱ったので、その者は大変な面目と感じて心から喜んだ」という逸話が記されている。 清盛の非道を示す有名なエピソードである「[[殿下乗合事件]]」は、清盛が[[松殿基房]]に報復したというのは平家物語のフィクションであって、実際には非道な報復を行ったのは重盛であり、『[[玉葉]]』や『[[百錬抄]]』の記述によれば清盛はむしろ基房に謝罪的な行為を示したと言われる。事件の背後には平氏と摂関家の強い反目があったと考えられる。 また平治の乱前後の清盛について『[[愚管抄]]』に「ヨクヨク謹ミテ、イミジク計ラヒテ、彼方此方シケル」とあり、如才なく諸方に気を配る人物であり、複雑な院政期の政界を生き抜く処世術を持っていた。しかし大きな権力を持つようになり、それを維持するために院・摂関家・寺社勢力と対立していく過程で強引な手段に出るようになり、評判も悪くなったのである。『[[源平盛衰記]]』では僧侶の祈祷によって雨を降らせた事を偶然に過ぎないと一蹴したり、[[経が島]]では清盛が[[人柱]]を廃止したという伝説があるなど、迷信に囚われない開明的な考え方の逸話も見られる。また、政治的には日宋貿易に見られるような財政基盤の開拓、[[経が島]]築造に見られるような公共事業の推進など、時代の矛盾に行き詰まりつつあった貴族政治に新生面を切り開いた優れた政治家であった。 また、京都でも大きな勢力をもつようになっていた仏教勢力の抑制に努めた人物でもある。皇位継承問題に干渉した興福寺と園城寺に総攻撃をかけたことは当時は評判が悪かったものの、強大な武力をもつ宗教勢力が皇位継承のような重大な政治問題に関わることを止めた意義は無視できない。皮肉なことにこの政策は敵である鎌倉幕府に僧兵を擁しない禅宗や念仏宗の保護といった穏健化した形で受け継がれていく。 == 年表(官歴) == {| class="wikitable" width="100%" |- !style="width:4em;"|和暦 !style="width:4em;"|西暦 !style="width:6em;"|月日<br>([[旧暦]]) !内容<!--内容は簡潔に記してください--> !style="width:5em;"|出典 |- |[[元永]]元 |1118年 | |生誕 | |- |[[大治]]4 |[[1129年]] |1月6日 |従五位下。1月24日、左兵衛佐。 |公卿補任 |- |大治6 |[[1131年]] |1月5日 |従五位上 |公卿補任 |- |[[長承]]4 |[[1135年]] |1月5日 |正五位下。8月21日、従四位下。 |公卿補任 |- |[[保延]]2 |[[1136年]] |4月7日 |[[中務大輔]] |公卿補任 |- |保延3 |[[1137年]] |1月30日 |[[肥後国|肥後守]]兼任 |公卿補任 |- |保延6 |[[1140年]] |11月14日 |従四位上 |公卿補任 |- |[[久安]]2 |[[1146年]] |2月1日 |正四位下。2月2日、[[安芸国|安芸守]]兼任。肥後守任替。 |公卿補任 |- |rowspan=2|[[保元]]元 |rowspan=2|[[1156年]] |7月6~11日 |[[保元の乱]] |公卿補任 |- |7月11日 |[[播磨国|播磨守]] |公卿補任 |- |保元3 |[[1158年]] |8月10日 |大宰大弐 |公卿補任 |- |[[平治]]元 |[[1159年]] |12月9~26日 |[[平治の乱]] | |- |[[永暦]]元 |[[1160年]] |6月20日 |正三位。8月11日、[[参議]]。大宰大弐如元。9月2日、[[右衛門督]]兼任。12月30日、大宰大弐辞任。 |公卿補任 |- |永暦2 |[[1161年]] |1月23日 |[[検非違使別当]]兼職。近江権守兼任。9月13日、権[[中納言]]。検非違使別当・[[右衛門督]]如元。 |公卿補任 |- |[[応保]]2 |[[1162年]] |1月9日 |検非違使別当・右衛門督両官職辞任。閏2月9日、検非違使別当・右衛門督兼職。4月7日、[[皇太后宮権大夫]]兼任。8月20日、従二位。9月、検非違使別当・右衛門督両官職辞任。 |公卿補任 |- |[[長寛]]3 |[[1165年]] |1月23日 |[[兵部卿]]兼任。8月17日、[[権大納言]]。兵部卿・皇太后権大夫如元。 |公卿補任 |- |[[永万]]2 |[[1166年]] |6月6日 |正二位。10月1日、[[春宮大夫]]兼任。兵部卿・皇太后宮権大夫両官止む。11月11日、[[内大臣]]。 |公卿補任 |- |[[仁安 (日本)|仁安]]2 |[[1167年]] |2月11日 |従一位[[太政大臣]]。5月17日、太政大臣辞任。 |公卿補任 |- |仁安3 |[[1168年]] |2月11日 |出家 |公卿補任 |- |[[承安 (日本)|承安]]元 |[[1171年]] | |娘[[平徳子|徳子]]入内 | |- |[[治承]]元 |[[1177年]] | |[[鹿ケ谷の陰謀]] | |- |治承3 |[[1179年]] | |[[後白河天皇|後白河法皇]]幽閉 | |- |rowspan=3|治承4年 |rowspan=3|[[1180年]] |4月22日 |[[安徳天皇]]即位 | |- |4月 |[[以仁王]]が平氏追討の令旨を発する |[[吾妻鏡]] |- |8月17日 |[[源頼朝]]挙兵 |吾妻鏡 |- |[[養和]]元 |[[1181年]] |閏2月4日 |薨去 |[[玉葉]] |} == 墓所 == [[画像:Kobe-heisyoukokubyou.JPG|thumb|right|240px|能福寺 平相國廟]] 以下が清盛の墓所として伝わっている。 *[[神戸市]][[兵庫区]]北逆瀬川の宝積山[[能福寺]] *神戸市兵庫区切戸町の清盛塚(供養搭) *[[京都市]][[東山区]]松原通大和大路東入ル2丁目轆轤町の補陀洛山[[六波羅蜜寺]]の平清盛塚 *京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町の嵯峨山[[大覚寺]](旧嵯峨御所大覚寺門跡)の搭頭寺院である[[祇王寺]]の供養搭 *[[山口県]][[下関市]]彦島の清盛塚 == 系譜 == 平清盛は、伊勢の産品の生まれとされる。葛原親王の子の高見王の子[[平高望]](たいらのたかもち)の子孫で、坂東の桓武平氏の流れを汲む伊勢平氏の一族。 *[[桓武天皇]]-[[葛原親王]]-[[高見王]]-[[平高望]]-[[平国香]]-[[平貞盛]]-[[平維衡]]-[[平正度]]-[[平正衡]]-[[平正盛]]-[[平忠盛]]-'''平清盛''' [[平忠盛]]の長子。『[[公卿補任]]』の記事から逆算すると、元永元年(1118年)の誕生となる。『[[平家物語]]』では白河法皇の寵愛を受けて懐妊した[[祇園女御]]が、忠盛に下賜されて清盛が生まれたとなっているが、『平家物語』の成立は鎌倉時代以降であり、祇園女御は当時40歳を越えていたと推測されることから信憑性は薄い。 『中右記』保安元年(1120年)7月12日条には「伯耆守忠盛妻俄に卒去すと云々。是仙院の辺なり」という記事があり、忠盛の妻が仙院(白河法皇)の周辺に仕えた女房だったことがわかる。名や出自が記されておらず身分は高くないと思われるものの、この女性が清盛の母の可能性がある。 === 白河法皇落胤説 === 明治26年(1893年)になって、滋賀県・胡宮神社所蔵の文暦2年(1235年)の日付を持つ『仏舎利相承系図』が発見されたことで、祇園女御の妹が白河法皇の寵愛を受けて懐妊後に、忠盛に下賜されて生まれたのが清盛であり、母が亡くなったので姉の祇園女御が猶子として養育したという説が有力となった<ref>この説を支持する本に高橋昌明『平清盛 福原の夢』(講談社、2007年)など。高橋は清盛の出世の速度が異常に速かったことをその傍証として挙げている。この当時、大臣になることができたのは、[[摂関家]]・その同族とみなされた[[村上源氏]]・新たに天皇の外戚となった[[閑院流]]に限定されていて、功績があったとはいえ清盛が大臣に昇進したことは極めて異例だった。</ref>。 {| |valign=top| '''系図凡例''' 太字は嫡流、=は婚姻、─は実子、--は養子 [[白河天皇]] [[池禅尼]]=========[[平忠盛|忠盛]]=========[[祇園女御]]?   |         |        |   |   |         ┌┴─┐  ┌──┬┴─┐ |   |        [[平家盛|家盛]] [[平頼盛|頼盛]] [[平経盛|経盛]] [[平教盛|教盛]] [[平忠度|忠度]] | [[鳥羽天皇]]                     |   |    ┌───┬───┐        ┏━┷━┓ [[後白河天皇]]=[[平滋子|滋子]]  [[平時忠|時忠]]  [[平時子|時子]]=======┃ '''清盛''' ┃=======高階基章女      |           |     ┗┯━┯┛  |      |   ┌──┬──┬─┴┐     | ¦  ┌┴─┐     [[高倉天皇]]=[[平徳子|徳子]] [[平宗盛|宗盛]] [[平知盛|知盛]] [[平重衡|重衡]]     | [[平清貞|清貞]] '''[[平重盛|重盛]]''' [[平基盛|基盛]]         |    |  |    ┌──┬┴─┐  |  |       [[安徳天皇]]  [[平清宗|清宗]] [[平知章|知章]]   [[平維俊|維俊]] [[平知度|知度]] [[平清房|清房]]  |  [[平行盛|行盛]]                 ┌──┬──┬──┬──┬─┴┬──┐                '''[[平維盛|維盛]]''' [[平資盛|資盛]] [[平清経|清経]] [[平有盛|有盛]] [[平師盛|師盛]] [[平忠房|忠房]] [[平宗実|宗実]]                |                '''[[平六代|六代]]''' |} *[[平忠盛]]:父 *[[祇園女御]]:母? *[[池禅尼]]:継母 *兄弟 **[[平家盛]] **[[平経盛]] **[[平教盛]] **[[平頼盛]] **[[平忠度]] *高階基章娘:妻 **[[平重盛]]:長男 **[[平基盛]]:次男 *[[平時子]](二位尼)[[平時信]]娘、[[平時忠|時忠]]姉:妻 **[[平宗盛]]:三男 **[[平知盛]]:四男 **[[平重衡]]:五男 **[[平徳子]](建礼門院):[[高倉天皇]]中宮 **[[平盛子]]:三女、[[近衛基実]]室(母が時子説に関しては{{要出典}}) **[[平祐子]]:四女(盛子の双子の妹)、冷泉家に嫁ぐ(双子説、名前、母時子説に関しては{{要出典}}) **[[平寛子]]:五女、[[近衛基通]]室(名前、母時子説に関しては{{要出典}}) *[[常盤御前]]:側室 **女子([[廊御方 (平家)|廊御方]]) *生母不明の子女 **[[平維俊]](六男) **[[平知度]](七男) **[[平清房]](八男) **女子(藤原成憲室、後[[花山院兼雅]]室) **女子(藤原信親室、後[[冷泉隆房]]室) **女子([[藤原信隆|坊門信隆]]室) *養子 **[[平清貞]](実父[[中原師元]]) **[[平清邦]](実父[[藤原邦綱]]) == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * [[上横手雅敬]] 『源平争乱と平家物語』 角川選書、2001年。 * [[五味文彦]] 『平清盛』 [[吉川弘文館]]〈人物叢書〉、1998年。 * 高橋昌明 『平清盛 福原の夢』 [[講談社]]、2007年。 * [[元木泰雄]] 『平清盛の闘い-幻の中世国家』 角川叢書、2001年。 == 平清盛が登場する作品 == ;2012年平清盛。松山健一 小説 * 『[[新・平家物語]]』 [[吉川英治]] * 『平家物語』 [[森村誠一]] * 『清盛』 [[三田誠広]] * 『宮尾本 平家物語』 [[宮尾登美子]] * 『海国記』 [[服部真澄]] ;漫画 * 『[[火の鳥_(漫画)|火の鳥]] 乱世編』 1978年、[[手塚治虫]] * 『平家物語』(マンガ日本の古典シリーズ) [[横山光輝]] ;映画 *『[[地獄門]]』(1953年 監督:[[衣笠貞之助]]、演:[[千田是也]]) *『[[新・平家物語 (映画)|新・平家物語]]』(1955年 監督:[[溝口健二]]、主演:[[市川雷蔵]]) *『壇の浦夜枕合戦記』(1977年 監督:[[神代辰巳]]、演:[[小松方正]]) *『[[五条霊戦記 GOJOE]]』(2000年 監督:[[石井聰亙]]、演:[[諏訪敦彦]]) ;TVドラマ *『[[源義経 (NHK大河ドラマ)|源義経]]』(1966年 NHK大河ドラマ、[[辰巳柳太郎]]) *『[[女人平家 (テレビドラマ)|女人平家]]』(1971年10月~1972年2月 TBS、[[佐藤慶]]) *『[[新・平家物語 (NHK大河ドラマ) |新・平家物語]]』(1972年 NHK大河ドラマ 、[[内田喜郎]]→[[仲代達矢]]) *『[[草燃える]]』(1979年 NHK大河ドラマ、[[金子信雄]]) *『[[武蔵坊弁慶 (テレビドラマ)|武蔵坊弁慶]]』(1986年 NHK新大型時代劇、[[芦田伸介]]) *『[[源義経 (TBSドラマ)|源義経]]』(1990年 TBS、[[若山富三郎]]) *『[[源義経 (テレビドラマ 1991年)|源義経]]』(1991年 日本テレビ、[[内藤武敏]]) *『[[平清盛 (TBSドラマ)|平清盛]]』(1992年 TBS、[[松平健]]) *『[[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]]』(2005年 NHK大河ドラマ、[[渡哲也]]) ;人形劇 *『[[人形歴史スペクタクル 平家物語]]』(1993年12月 - 1995年1月 NHK人形劇) == 関連項目 == ;史料 *[[玉葉]] *[[愚管抄]] *[[吾妻鏡]] ;軍記物語 *[[保元物語]] *[[平治物語]] *[[平家物語]] *[[源平盛衰記]] ;その他 *[[桓武平氏]] *[[伊勢平氏]] *[[平氏政権]] *[[福原京]] *[[厳島神社]] *[[平家納経]] *[[三十三間堂]] *[[全国平家会]] == 外部リンク == *[http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01102.htm 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 桓武平氏清盛流【1】] *[http://www.miyajima-wch.jp/jp/itsukushima/ 厳島神社宮島観光公式サイト] {{DEFAULTSORT:たいら の きよもり}} [[Category:平安時代の武士]] [[Category:平家|きよもり]] [[Category:1118年生]] [[Category:1181年没]] [[en:Taira no Kiyomori]]