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『[[メトロポリス]]』は公開当時の評価が低く、興行面でも奮わず、製作会社ウーファは新聞社に身売りすることになった。殺人事件をモデルにした1931年の犯罪ドラマ『M』では、殺人鬼を主人公にしてその内面心理を深く追求した。1933年に政権を握ったナチス宣伝省の[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]は、『怪人マブゼ博士』のラストに反ナチの精神を読み取り、出頭を命じるが、 母親がユダヤ人のラングは、熱烈なナチス党員だった妻ハルボウに別れも告げずに、その日のうちに荷物をまとめてフランスに逃亡した。 パリで[[シャルル・ボワイエ]]主演のファンタジー映画『[[リリオム]]』(1934)を手掛けた後、1934年6月に渡米した。
 
『[[メトロポリス]]』は公開当時の評価が低く、興行面でも奮わず、製作会社ウーファは新聞社に身売りすることになった。殺人事件をモデルにした1931年の犯罪ドラマ『M』では、殺人鬼を主人公にしてその内面心理を深く追求した。1933年に政権を握ったナチス宣伝省の[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]は、『怪人マブゼ博士』のラストに反ナチの精神を読み取り、出頭を命じるが、 母親がユダヤ人のラングは、熱烈なナチス党員だった妻ハルボウに別れも告げずに、その日のうちに荷物をまとめてフランスに逃亡した。 パリで[[シャルル・ボワイエ]]主演のファンタジー映画『[[リリオム]]』(1934)を手掛けた後、1934年6月に渡米した。
  
アメリカでは[[デヴィッド・O・セルズニック]]と契約し、[[スペンサー・トレイシー]]主演の『激怒』(36)を監督した。 1937年にはボニーとクライドをモデルに男女の逃避行を描いた『[[暗黒街の弾痕]]』を発表。 『[[死刑執行人もまた死す]]』(1943)ではナチスの恐怖を描き、 1941年にウェスタン『西部魂』(1941)、1944年にフィルム・ノワール『飾り窓の女』、1946年にスパイ映画『[[外套と短剣]]』などを監督した。
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アメリカでは[[デヴィッド・O・セルズニック]]と契約し1936年に[[スペンサー・トレイシー]]主演の『[[激怒]]』を監督した。 1937年にはボニーとクライドをモデルに男女の逃避行を描いた『[[暗黒街の弾痕 (1937年の映画)|暗黒街の弾痕]]』を発表。 『[[死刑執行人もまた死す]]』(1943)ではナチスの恐怖を描き、 1941年にウェスタン『西部魂』(1941)、1944年にフィルム・ノワール『[[飾り窓の女]]』、1946年にスパイ映画『[[外套と短剣]]』などを監督した。
アメリカ時代に20年間で22本の作品を演出した。1950年代末に西ドイツへ戻り、リメイク版『怪人マブゼ博士』(1960年)を撮った。 1963年には[[ゴダール]]の依頼で映画産業を舞台にした『軽蔑』に俳優として出演した。晩年はアメリカで過ごし、1976年8月2日に[[ビバリーヒルズ]]の自宅で永眠した。
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アメリカ時代に20年間で22本の作品を演出した。1950年代末に西ドイツへ戻り、リメイク版『[[怪人マブゼ博士]]』(1960年)を撮った。 1963年には[[ゴダール]]の依頼で映画産業を舞台にした『軽蔑』に俳優として出演した。晩年はアメリカで過ごし、1976年8月2日に[[ビバリーヒルズ]]の自宅で永眠した。
  
 
== 作品評価 ==
 
== 作品評価 ==
 
*[[ジャン=リュック・ゴダール]]、[[フランソワ・トリュフォー]]らフランスのヌーヴェル・ヴァーグの若い批評家、[[ピーター・ボグダノビッチ]]らはドイツ時代よりもアメリカ時代のラング作品を絶賛している。
 
*[[ジャン=リュック・ゴダール]]、[[フランソワ・トリュフォー]]らフランスのヌーヴェル・ヴァーグの若い批評家、[[ピーター・ボグダノビッチ]]らはドイツ時代よりもアメリカ時代のラング作品を絶賛している。

2018年8月22日 (水) 23:11時点における版

フリッツ・ラング(Friedrich Christian Anton "Fritz" Lang( 1890年12月5日 - 1976年8月2日 )は、オーストラリア・ドイツ・アメリカ合衆国の映画製作者、脚本家、時にはプロデューサー、俳優であった。ドイツ表現派の巨匠として知られ、イギリス映画協会からは「暗黒の巨匠」と呼ばれている。

経歴

1890年にウィーンでアントン・ラング (1860–1940)の次男として生まれた。オーストリアのショッテン修道院で1890年12月21日に洗礼を受けた。両親はモラヴィアの出身で、ローマンカトリックであった。母(旧姓シュレージンガー)はユダヤ教からの改宗者だったが、宗教を重要なものと考え、息子をカトリックに入信させた。ラングの映画には、時々カソリックの影響が表れている。自身は後年「カソリックに生まれた」と述べている。

学校を卒業後、短期間だがウィーン工科大学で土木工学を学び、その後、芸術学に転じた。1910年から1914年にかけて、世界を見るためにウィーンを立ち、全ヨーロッパとアフリカを旅行した。後年にはアジアと太平洋地域にも回った。パリ滞在時に第一次世界大戦が勃発し、 敵性外国人として収容所に入れられたが脱出した。

その後、ウィーンに戻り、オーストリア軍の義勇兵として活動したが、戦争中に4回負傷している。中尉となったあと退役し、1918年から役者をしていた。陸軍病院入院中に暇つぶしに映画用のストーリーや脚本を書いたものがドイツの大手映画会社ウーファのプロデューサーのエーリッヒ・ポマー目に留まり、の制作会社ウーファに雇われた。ドイツの映画会社ウーファで監督として働き始めたときに、表現主義運動が開始された。

1919年の『Halbblut』で監督デビューし、1920年には将来の妻となる作家のテア・フォン・ハルボウと出会った。1921年のサイレント映画Destiny(ドイツ語:Der müde Tod)は人気を博したスリラー映画となり、ドイツ映画界の第一線に躍り出た。日本でのタイトルは公開時『死滅の谷』であったが、『死神の谷』に変更されている。本作品にルイス・ブニュエルは強く影響を受け、後に映画監督となるきっかけとなったという。

1922年には世界犯罪映画史に残る古典となった『ドクトル・マブゼ』、1927年にはSF映画の古典的大作『メトロポリス』、1931年にはトーキー初期のサスペンス映画『M』などドイツ映画を代表する作品を送り出した。中でも『ドクトル・マブゼ』は世界中から絶賛され、興行的にも大成功を収めた。1922年にテア・フォン・ハルボウと結婚した。 『メトロポリス』は公開当時の評価が低く、興行面でも奮わず、製作会社ウーファは新聞社に身売りすることになった。殺人事件をモデルにした1931年の犯罪ドラマ『M』では、殺人鬼を主人公にしてその内面心理を深く追求した。1933年に政権を握ったナチス宣伝省のヨーゼフ・ゲッベルスは、『怪人マブゼ博士』のラストに反ナチの精神を読み取り、出頭を命じるが、 母親がユダヤ人のラングは、熱烈なナチス党員だった妻ハルボウに別れも告げずに、その日のうちに荷物をまとめてフランスに逃亡した。 パリでシャルル・ボワイエ主演のファンタジー映画『リリオム』(1934)を手掛けた後、1934年6月に渡米した。

アメリカではデヴィッド・O・セルズニックと契約し1936年にスペンサー・トレイシー主演の『激怒』を監督した。 1937年にはボニーとクライドをモデルに男女の逃避行を描いた『暗黒街の弾痕』を発表。 『死刑執行人もまた死す』(1943)ではナチスの恐怖を描き、 1941年にウェスタン『西部魂』(1941)、1944年にフィルム・ノワール『飾り窓の女』、1946年にスパイ映画『外套と短剣』などを監督した。 アメリカ時代に20年間で22本の作品を演出した。1950年代末に西ドイツへ戻り、リメイク版『怪人マブゼ博士』(1960年)を撮った。 1963年にはゴダールの依頼で映画産業を舞台にした『軽蔑』に俳優として出演した。晩年はアメリカで過ごし、1976年8月2日にビバリーヒルズの自宅で永眠した。

作品評価