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博学多才で『[[漢書]]』に注釈を施し、多くの著作を遺した<ref name="cn1top"/>。
 
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『[[三国志演義]]』でも同じで袁紹の下に亡命している。
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『[[三国志演義]]』でも史実と同じで袁紹の下に亡命している。ただしその後は登場しない。
  
 
== 脚注 ==
 
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2016年5月4日 (水) 11:13時点における最新版

応 劭(おう しょう、生没年不詳)は、後漢末期の武将政治家。父は応奉。叔父は応瑒応璩仲遠(ちゅうえん)[1]

生涯[編集]

最初は後漢朝廷に仕え、孝廉に推挙されて大将軍である何進の義弟・何苗の属官となる[1]。後に泰山郡太守となり、黄巾賊30万人の侵入を防いだ[1]

193年曹操の命令で曹嵩曹徳らを出迎えようとしたが、その前に徐州牧の陶謙により曹嵩らが殺されたため、曹操の報復を恐れて袁紹の下に逃亡し、袁紹から軍謀校尉に任命された[1]204年の曹操の冀州平定時には既に亡くなっていたという[1]

博学多才で『漢書』に注釈を施し、多くの著作を遺した[1]

三国志演義』でも史実と同じで袁紹の下に亡命している。ただしその後は登場しない。

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 小出『三国志武将事典』P33

参考文献[編集]